分子の科学である化学のフィールドでは,分子分光学や光化学に代表されるように,光によって分子の性質や反応についての理解が深められてきた.レーザー光の導入は確かに大きな進展をもたらしたが,しかし,研究の対象は,分子系そのものであり,その際に光は摂動として系を特定の量子準位から別の量子準位移動させる役割を果たしてきたにすぎない.ところが,この10年ほどの間にその状況が大きく変わり,光と分子が強く相互作用した状態,すなわち光と分子の混ざった状態が新しい研究対象となってきた.この新しい分子科学の分野は,物理学と化学そしてレーザー工学の研究分野の研究者の学際的な交流によって現在も急速に進展している分野であり,「強光子場化学」あるいは,より広く「強光子場科学」と呼ばれている.

この分野の進展については日本語の解説61),また分野の概観については文献62)がある.また,いくつかの総説63)に最近までの研究の動向が紹介されている.

本稿では,特に化学反応の誘起と制御という観点から強光子場科学の分野のこれまでの発展を紹介する.

36・3・1 強光子場化学の現状

現在の超短パルスレーザー技術の発展は,単にレーザーのパルス幅を大幅に短くするというばかりではなく,レーザーパルスのピーク強度を格段に大きくすることを可能とした.たとえば,原子や分子の中の電子はクーロン場によって原子核に引き付けられているが,そのときのクーロン電場の大きさは,水素原子の1s軌道を考えてみると,5×109 V/cmあるいは,場の強度を単位面積当りの仕事率の形で表せば2×1016 W/cm2となる.

これだけの大きな電場を静電場として作ることは不可能であるが,交番電場であるレーザー光を用いればそれが可能となる.標準的なTi:サファイア超短パルスレーザー光(波長800 nm,パルス幅100 fs,パルスエネルギー 1 mJ)を適当に集光すれば,1015 W/cm2のレーザー場を生成することが可能となる.このような進展が可能となったのは,チャープパルス増幅(chirped pulse amplification:CPA)技術64)の開発に負うところが大きい.現在では,先端レーザー施設においては,1020 W/cm2を超えるレーザー場の発生が可能となっている62)

図36・12に強光子場の科学の概観を示した.図にあるように,1 PW/cm2(1×105 W/cm2)の強度を中心にその上下の3桁程度の間はクーロン領域と呼ばれ,分子がその領域においてさまざまな特異なダイナミクスを示すことが明らかとなっている.たとえば,比較的レーザー場の低い領域(1 TW/cm2=1×1012 W/cm2)において分子がその分子軸をレーザー電場の方向に向きをそろえる配向という現象が起こり,レーザー場がさらに大きくなり1 PW/cm2に近づくと分子の構造が光子場の下で大きく変形するようになる.そして,光電場によるトンネルイオン化現象が進み,分子系は多価イオンとなり,クーロン爆発と呼ばれる現象が起こることが知られている.このようなダイナミクスを理解するためには,光子場によって分子の持っていた分子内のポテンシャルが大きくひずむことを考慮することが必要となる62)

図36・12

それよりもさらにレーザー場の大きな1 EW/cm2(1018 W/cm2)超える領域は相対論領域と呼ばれている.この領域では,光電場によって加速された電子が,光速に近く加速されローレンツ力が大きく影響を与えるようになる.クラスタや固体ターゲットにレーザー光を集光し,この強度領域の強光子場を生成させると,高速(keV-MeV)の電子やプロトンが発生することが知られている.また,ピコ秒領域の短パルスのX線を発生させることもできる.このように高いエネルギーの粒子や光子の発生は量子放出(quantum emission)と呼ばれている.これらの量子放出現象を利用して,物質の変化を追跡しようとする動きも活発になっている.たとえば,X線回折を時間分解でおこない固体内のダイナミクスを追跡するなどの研究65)がおこなわれるようになっている.一方,重水分子からなるクラスタからは中性子の発生が確認されており,光子場による核反応の誘起も可能となっている66)

36・3・2 新しい分子科学

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