量子カスケードレーザの未来への考察

アントニオ・ラスパ、フランチェスカ・モグリア

量子カスケードレーザ(Quantum Cascade Laser:QCL)は、狭い線幅を特長とするため、関連用途として主に重点が置かれているのは、化学センシングである。しかし長期的には、電気通信や材料加工も注目を集める可能性がある。

量子カスケードレーザ(QCL)の初めての実証実験を行ったのは、現在は米ハーバード大(Harvard University)で応用物理学ロバート・ウォレス教授(the Robert Wallace Professor of Applied Physics)を務めるフェデリコ・カパッソ氏(Federico Capasso)が率いていた、米ベル研究所(Bell Labs)のチームで、1994年のことだった。同氏は、QCL発明から30年近く経った後に、(QCLは)「中赤外域の広い範囲にわたって波長が調整可能な、唯一のチューナブル光源で、コンパクトで室温で動作することと相まって、科学と技術の幅広い用途を切り拓き、分光法、気候変動研究のための大気化学、微量
ガス分析、汚染監視、化学センシング、医療/材料/燃焼などの分野における診断、赤外線対抗装置などの軍事用途に影響を与えた」と述べた。これまでに、標準的な動作条件下で、最短で2.63μmから最長で250μmまでのレーザ波長が実証されているが、商用提供されているQCLは、4〜12μmの範囲に発振波長を持つものがほとんどである。
 QCLは、中赤外域(mid-IR)の周波数範囲全体を活用できるという点において重要である。

量子カスケードレーザ

元来の半導体レーザダイオードは、半導体材用のpn接合における遷移を利用して、光放射を生成する。これに対してQCLでは、所定の量子井戸の中の状態の間でレーザ遷移が生じる。この構造の利点は、光子を放出させる電子が次の量子井戸にトンネルするため、単一の電子によって複数の光子が生成でき、非常に効率が高いことである。
 井戸から井戸へのこのトンネル動作から、「量子カスケード」という概念が生まれた。製造プロセスで層の深さを制御することによって井戸の深さを操作することにより、所望のレーザ遷移波長を生成することができる。この方法の最大の利点は、発振波長が層の厚さだけに依存し、従来の半導体レーザのように構成材料には依存しないため、非常に広い波長範囲のレーザが生成できることである(λは3〜160μm)。
 従来のフーリエ変換赤外(Fouriertransform infrared:FTIR)分光法、質量分析法、光熱変換顕微分光法の各システムと比べて、QCLは応答時間が短く、チューニングレンジははるかに広くて、中赤外域と長波長赤外域をカバーする。このような特性から、より高速かつ高精度でコンパクトな微量元素検出器やガス分析器が構成可能で、QCLは、多様なセンシング及び分光用途に対して理想的な光源となっている。

分光法とIRの指紋領域

QCLを利用することにメリットがある技術の1つが、赤外(IR)分光法である。赤外分光法は、100年以上前から吸収または透過による物質の化学的特性評価に用いられている。分子構造によって許容される振動/回転モードが異なるために、すべての共有結合材料が赤外域に固有の吸収スペクトルを持つ。各分子結合に伴う多様な吸収バンドによって、それぞれ異なるスペクトルが形成される。分子指紋として知られるこのスペクトル(5〜14μm)の中で、ほとんどの液体、気体、プラスチック、ガラス、生物組織の振動共鳴や、天体からの放射を観測することができる(図 1)。
 従来、IR吸収は、広帯域IR光源と走査干渉計で構成されるFTIR分光計によって測定されていた。QCLを使用する場合は、干渉計は完全に不要となり、IR光源はチューナブルQCLに置き換えられて、そのシステムは大幅に簡素化される。その結果として、システムのコストと複雑さが大幅に軽減されるため、QCLは現在、化学分析や化学イメージングに、広く利用されている。
 加えてQCLは、他のコヒーレント光源よりも指紋領域における輝度がはるかに高く、遠く(最大で数百メートル離れた場所)にある物質の非接触センシングを、非常に小さな光結合損失で行うための十分な輝度を備える。また、QCL光源の高い輝度によって、十分に高い信号雑音比(SNR)が得られるため、高感度の極低温検出器は不要となり、液体窒素を供給する面倒な手間も省かれる。

図1

図1 2〜12μmの波長範囲で振動及び回転する主な分子構造。(画像提供:MIRPHAB)

応用分野

QCLは、従来の半導体レーザよりもサイズが小さく、消費電力が低く、高度な機能を備えることから、複数の応用分野(図 2)においてますます利用が拡大している。以下では、その一部を紹介する。
 産業制御(オンラインガスセンシング)。QCLの高いビーム品質により、輸送ターミナル、化学工場、製油所、軍事基地などの大きな屋内及び屋外施設の監視に有効な、長い経路長が実現できる。例えば、QCLベースのシステムによって、空港ターミナル内の空気をスキャンして、大気中に化学物質が浮遊している危険性を検出することができる。類似のシステムは、プロセス制御のためのパイプ内のガスのオンライン監視や、ガスをサンプリングすることなく環境規制に対応するための産業用排気筒の遠隔リアルタイムセンシングにも利用されている。より長い波長を吸収する、さらに複雑なガス分子に対しては、テラヘルツQCLが現在商用化されている。中には100〜150μmの波長範囲で発振して、現行技術よりも高い測定精度を達成するものも存在する。
 防衛とセキュリティ。防衛分野におけるQCLの主な用途は、ヘリコプタや航空機のミサイル保護である。指向性赤外線対抗装置(direct infraredcountermeasure:DIRCM)として一般的に知られるこの用途では、4μmの高出力QCLが、熱検知のミサイル防衛手段として利用される。また、即席爆発装置(Improvised Explosive Device:IED)は多くの場合、テラヘルツ帯に吸収スペクトルを持つ複合材料で構成されており、堅牢でポータブルなテラヘルツQCLベースの検出器は、移動部隊の前方の連続スキャンや、多くの人々が集まる公共の場における脅威の検索に利用することができる。
 環境モニタリング。交通、産業、農畜産業によって地球の大気中に放出される過剰な量の汚染物質(NOx、CO、NH3、VOCなど)は、疾病やアレルギーを引き起こし、人間を死に至らしめる恐れさえある。また、動物や食用作物といった他の生物に害を及ぼし、自然環境や構築環境に損害を与える可能性もある。大気質の監視と診断は、呼吸する空気を清潔で安全な状態に保つために不可欠である。これに対し、レーザ吸収分光法に基づくコンパクト(ポータブル)で正確な測定器が、複数のガス(SO2、CO、CO2、NH3、VOC、NOx、CH4など)のリアルタイム検出用に提供されており、地球温暖化に関する信頼性の高いデータの収集が可能である。
 医療。QCLベースのシステムは、拡大しつつある医療診断の分野でも利用が増加している。生物組織を構成するさまざまな分子の基本振動によって、3〜12μmの領域に鋭く強力な吸収ピークが現れるためである。従って、それらの分子によって形成される吸収スペクトル(いわゆる「指紋スペクトル」)を調べることにより、生物組織の分析が可能で、構成分子を同定してその組成を分析することができる。原理上は、中赤外吸収分光法を利用することにより、血液や間質液に含まれるタンパク質、糖質、脂質などの成分を非侵襲的に分析することができる。従って、採血を行うことなく、その場でリアルタイムに健康診断を行う医療システムの開発が期待されている。例えば、患者の呼気に含まれる微量ガスは、糖尿病や、ぜんそくなどの呼吸器疾患、腎臓や肝臓の機能不全を示唆する可能性があり、これ以外の指標も定期的に発見されている。QCL分光法は、表層の化学分析が可能である。例えば、整形外科用インプラントの表面に適用される特殊な骨親和性コーティングの特性評価を行うことが可能で、これによって、人体組織に対するインプラントの受容性を高めることができる。

図2

図2 中赤外センシングの主要応用分野。(画像提供:仏テマティス社[Tematys])

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出典元
http://ex-press.jp/wp-content/uploads/2022/05/028-032_ft_infrared_lasers.pdf